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ロシアとウクライナ問題の真実と精神世界

これは筆者の妄想で全く信憑性も真実せいもないとあらかじめ記述しておく。

まず筆者はロシアに行ったことがない。この目で確認をしたことがない。
そしてウクライナも同様である。

つまりこれらの国は戦争以前に存在しているか。
というところからスタートする。

この世は目に見えているものが全てではないし。
全てが真実ということにはならない。

そもそもロシアもウクライナも存在しないと過程することもできる。
つまり戦争すらない。という可能性が考えられる。

以上である。
しかしそれが真実だとしても。
その真実は本当に真実なのか?
今の自分の存在を考えるところからスタートしなくてはいけない。

つまり何かが起きる。
起きたように感じるが
それは何も起きていない。

それは考え方次第である。
捉え方次第。

そしてその認知の真実はない。
ないというよりわからないし
しかし分かる。とはいえわかったきになっているだけ
でもある。

人間は生まれたときから社会というものに
言葉というもの、知識、というものがあるとして
それらが伝染して、概念植えつけられると仮定すると

概念は妄想である可能性もあるが
それは人一人ずつ違う可能性もあり
または人は存在しない、また間違った認識をこの文章をさらに、ひねりを加えたもの、または突飛すぎるもの含め。
全てがあり、そしてない。

つまりは意味不明であり。
それは意味が通り。
間違いは真実であり、またその逆も正しく間違っている。

全ての辻褄が合うがまったく辻褄があわない。

人が、自身が実は存在しないと仮定してみると。
人が何をしてもそれは真実なのか、真実ではないのか

全てを理解することができない。

人が定義する
例えば数学の仮説である

この世界上のもので、公式を組む
それは計算どおりだ。

この世界だけでは
の話である。

その公式は正しいが、そんなものはない。

あなたがゲームを作ったとしよう
ゲームにルールをつける、それはその世界の数学的世界の設定である
キャラを作り、セリフに、私は数学の公式を導き出した。という設定を与える

これは、そのゲーム内の世界でキャラは数学を理解し、公式を導き出した。

というゲーム上の真実が誕生したとする。

これは私たちと同じである。
この公式にはなんの力もない。

何を導き出し何を作り上げても
無である。それはないものに理由をつけているだけだから。

わたしたちの世界での公式は全く役に立たない。

真実を見る、それはそういうことではない。

なにがおきても、何が証明されても
それはあったとしてもない。またそれも逆であり
意味を持たない、しかし意味を持つ。

人はいつまでも考え続け高みに行けるかもしれないし
そんなものはないかもしれない、実際にないだろう。
そしてそれはあるのだろう。